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開業記録

“脱サラ”起業は失敗続き:医療から飲食、イギリスから日本へ

#キャロットケーキ#グルテンフリー#ケーキ屋開業#開業記録

こんにちは、Yokoです。神奈川県藤沢市、江の島近くの「片瀬」という街に、小さなケーキ屋を2021年3月にオープンしました。自身の小麦アレルギーをきっかけに、全て日本の有機米粉で焼いています。看板商品は何と言ってもキャロットケーキとブラウニー。長く住んだイギリスの思い出が詰まったケーキたちです。前回の記事「店主の自己紹介:略歴&性格、起業した理由」では、私の略歴をざっと紹介すると共に、私がケーキをビジネスとして始めることに決めた理由をご紹介しました。この記事では、元医療従事者だった私が、その仕事を辞め(ようと)してケーキをビジネスとして始め(ようとす)るまでを語ります。出だしは決してスムーズでなかったYOKO BAKESの全貌、貴重な失敗談も交えて語りますので、是非最後までお読みください。

夢の仕事に就職するも、違和感を感じ始めた産後

「何となく」大学に進んだものの、就職活動はしない道へ

前回の記事でもご紹介したのですが、私は元々医療従事者でした。何となく芸術系の進学も考えていたのですが、「容子は頭がいいから勿体ないよ!」と高校の友達に言われたのをきっかけに、特段理由もなく、大学に進むことを決めました。当時、実は流行りだったネイルアーティストになりたいと思っていたのですが、「頭がいい人は大学に進むんだ」と友人の言葉を素直に受け入れて、大学受験に進むことにしました。進学校で周りが受験する中、人と違うことをするのが怖かった、と言うよりも、それ以外の選択肢が当時はあまり考えられなかったと、今振り返れば思います。

大学では、得意だった英語の延長で「言語学」を専攻。3年生の頃だったか、周りが就職活動をする時期、何となく自分は企業や組織に属して働くのは向いていない、というのは様々なバイト経験を通して分かっていたので、その波には乗りませんでした。じゃあ何をするか、となった時に、「何がしたい」と言うのは特段思いつかず、「何が出来るか」を考えた時に、私は言語学のことしか知らないことに気付きました。「とにかく何かちゃんとした仕事に就かなきゃ」という想いが強く、言語学を専攻していて出来る仕事って何だろう?そう漠然と考えていた矢先に受けたのが、「言語障害」という授業でした。外部の先生の授業で、そこで「言語聴覚士」という仕事と出会うことになります。

「言語聴覚士になりたい」と決めて行動

大学で専攻した言語学を生かしながら、誰かの役に立てる仕事。「私の仕事は、これだ!」と決め、言語聴覚士にまつわる色んな本を読み漁り、大学後は資格を取る道に進むことにしました。その時は日本の大学院や専門学校を考えていたのですが、ポーランド人の主人とデンマークで出会ったのをきっかけに、ロンドンの大学院に行くことに。「イギリス人でさえ修了するのが難しく、おまけに就職難なのに、アジア人のあなたに出来るチャンスは甚だ薄い」と面接官に言われたのですが、「やりたいんです」と涙で訴えた成果でした。

面接官が言った通り、授業にも課題にもついていくのは大変でした。ロンドンで生活費をバイトで稼ぎながらの学業だったこと。更に読むのにも書くのにもイギリス人の3倍どころか、5倍ほど時間がかかったこと。就職難は一向に良くならず、何度か先生に「就職のチャンスは殆どないよ」と言われたこと。ポーランドがEUに加盟したばかりで、メディア等ではポーランド人が叩かれていたこと。全てがバラ色でなかっただけに、「優秀成績”With Distinction”」で無事資格を取得し、さらにロンドン市内の病院から内定を貰ったときは、天にも昇る想いでした。27歳の誕生日を迎えてすぐ始めた仕事、社会人デビューとしては人より少し、遅かったことになるのでしょうか。やっと掴んだ夢の仕事、とにかく毎日が新鮮で、学びの連続で、私はその仕事をしていることを、すごく誇りに思っていました

やっと夢の仕事に就いたのに、感じる違和感と罪悪感

娘を妊娠して、産休に入ったのはその3年後くらいです。何となく、仕事への意欲も薄まってきたというか、毎日が楽しくなくなってきたというか、ちょっと間がさしたような、そんな時期でした。周りの同期がどんどん上の位に進んでいく中、私はちょっと先を見失っていました。同期が専門性を深めていくのに対し、私は「どうしてもこれがやりたい」という分野が見つからず、何となく格好良さそうな専門分野を見つけては、文献を読んだり、学会に出てみたりするのですが、全然身が入らない。育休の後、仕事に復帰した時は、よりそれが顕著に表れました。というのも、その時、私は上司キャサリンのウェディングケーキを作った後だったので、「もっとケーキを作りたい」という想いが芽生えていたのです。

ウェディングケーキ
これは別の友人のウェディングケーキ:一番上以外はキャロット

それでもケーキで起業する勇気どころか考えなどなく、「ケーキは趣味」と自分に言い聞かせ、「せっかく資格を取ったんだから続けなきゃ」と、病院の仕事を続けていました。その間、ブリティッシュ・ベイクオフのオーディションの最終選考まで残ったり、他のウェディングケーキを頼まれたり、ロンドンのパンコンクールで新人賞を取ったり、私の”baking”の活動は増えるばかりでした(詳しくは前回の記事で)。と同時に、仕事中もケーキのことを考えることが多くなり、それは医療機関で働く私にとっては、とても危険なことでした。当時働いていた病棟は、繊細なケアを必要とする患者さんが多かったのに、私はケーキのことばかり考えてしまい、そんな自分にとても罪悪感を感じていました

本当にやりたいことは、きっとどこかで知っていた

そしてそれを辛く思っていた私を見て、友人であり同僚でもあるニッキーが、「キャリアコーチングみたいなのをやってあげる」と提案してくれ、私の話を聞きだしてくれました。そして、一言キッパリ、「Yoko、あなたはケーキを焼きなさい」と言ってくれたんです。その時感じたのは、やりたい気持ちを認めてもらえた安堵感と、そんなこと出来るわけがないという反発感でした。彼女は続けて、「ほら、例えばさ、”YOKO BAKES”っていう名前にして、ロゴとか作って…」と言いながらビジネスを始めるアドバイスをしてくれたのですが、それが今からちょうど10年前の2014年。その時ニッキーが適当に口走った名前”YOKO BAKES”が、そのまま今のお店の名前になっています

そしてちょうどその時期、私は勤務先で初めてのパニック発作を起こしてしまい、その後も小さな発作が出るようになりました。かなりタフな精神を求められる病棟だったし、私にとってはとてもストレスフルな仕事内容だったので、勤務を続けることを諦め、退職届を出しました。今思えば、パニック発作は身体からのストップサインだったのですが、その時は自分に何が起こっているのか、全く理解できず、とても辛かったです。ケーキを焼きたいとは言え、あれだけ頑張って取った言語聴覚士の資格を手放すのも、勿体ないという気持ちも強かったです。

不発に終わった最初の挑戦

ケーキ屋を始める決意の先に立つ大きな壁

ここまではロンドンに住んでいたのですが、2人目を妊娠したきっかけに、世界遺産の街Bathへ引っ越します。新たな土地で、言語聴覚士の仕事も辞めて、さあ、いざケーキ屋を始めよう!と決めたのですが、そんなにスムーズには行きませんでした。イギリスでは、ケーキを副業として始める際、自宅のキッチンで製造許可を取れるという制度があります。なので、私は賃貸でも出来ると思っていたのですが、まず、大家さんに大反対されました。悔しかったですが、仕方ありません。それでも、友達に頼まれたりするケーキは作るなどして、大々的に「ビジネスとしてやってます」って公表しなければいいか、と思っていた矢先、主人が2度目のリストラに合ってしまいます。主人の収入だけを頼りに、Bathの家も借りていたし、それがあってこそ挑戦できるビジネスとしてのケーキ作りだったので、かなりの打撃でした。

Kipling Avenueという通りに住んでいた。黄色い石の外壁が特徴のBath

しかも、私たち夫婦には0歳児と3歳児がいる。ケーキが作りたいとか云々言ってる場合じゃない。誰かが働きに行け!と言うことで、私が言語聴覚士の仕事に復帰することになりました。主人の仕事は専門職で、なかなか仕事が見つからないこと、Amazonの配達員という選択肢もあったけど、給料が激安で生活にならない、という事で半ば嫌々決定しました。産後ぼ~っとする頭で、もう書くことはないと思っていた言語聴覚士の履歴書と職務経歴書を急遽書き上げ、たまたま近くの病院で募集していたので応募して面接、内定へ。あんなに悩んで、ニッキーにも手伝ってもらって、ケーキを仕事にしたいと決めたのに、気付いたらいとも簡単に、言語聴覚士の仕事に戻っていました。でも、生活の為だから、仕方ない。子どもだって小さいし、何より食べて生きることが、その時は最優先だったのです。

どうしても拭えない気持ちと自転車操業の生活

こうして「大家の大反対」と「主人のリストラ」という壁により、脱サラも起業も見事不発に終わり、言語聴覚士という元さやに戻った私は、それはもう本当に嫌々仕事に行っていました。生活のため、と割り切っていても、どうしても拭えない焼きたい気持ち。本当にやりたい事が別にある中、一度「これは私の本当にしたい事ではない」と見切りをつけた仕事にまた戻るというのは、いくら必要とは言え、私にとっては苦痛でしかありませんでした。そんな折、私たち家族はまたもや引っ越すことになります。そう、Bathで支払っていた家賃は主人の収入ありきの計算だったので、私だけの収入では払い続けることが難しく、家賃がお手頃な田舎へ引っ越すことになりました。それが、Frome(フルーム)です。

急に訪れたビッグチャンス:「YOKO BAKES」の誕生

小さな夢と希望を捨てきれず

Bathから車を走らせること30分くらいに位置するFromeは、何とも可愛い田舎町。Bathにしろ、Fromeにしろ、Somerset(サマーセット)というイギリスの南西部のエリアにあるのですが、地理的にはコッツウォルズ地方の下にくっついているような感じです。イギリスの地図を見ると、大まかには「左下」あたりのエリアです。山岳地帯の日本に比べ、そこはなだらかな丘が続く地形。丘には牛や羊がいて、ちょっと北海道と似ているかも知れません。そんな風景を楽しみながらドライブしていると、丘がちょうど窪んでいる所を町の中心として発展しているのが、Fromeです。

現在の店頭にも羊や馬の絵が並んでます。

ケーキ屋を始めることには大反対だったBathの大家さんですが、どうしても賃貸契約が切れる前に引っ越す必要がある理由を説明すると、「それは大変だね。ペナルティは払わなくていいよ」と快く受け入れてくれました。生活費が底をつきかけていたので、あの時はそのありがたさに涙が出ました。引っ越す前は小さなパーティーを開いたのですが、友達のアビーが、「Yoko、フルームに行くなら月一のマルシェに出店するといいよ。でも、皆あそこに出店したくて、人気が高いから選考も厳しいし、かなり待つことになると思うけど」と教えてくれました。その時は「いやマルシェなんて無理」と思ったのですが、ふと、「応募してみようかな」という気持ちになり、主人にも内緒でこっそりエントリーしたのが、引っ越しの1か月前ほどです。それは、ケーキ屋としてのスタートが不発に終わった後、小さな夢と希望を買うような感覚だったかも知れません。「どうせ厳しい選考だし、すぐには受からない」と思い込んでいたので、ただ、その「応募する」プロセスを楽しむためだけにやったようなものでした。

the frome independent
マルシェのポスター「何かいいことがあるさ」

引っ越した矢先のサプライズとは

日本では引っ越し屋さんを使うのが主流ですが、イギリスの場合、近場であれば小型のトラックをレンタルして、友達総動員でやってしまうのが定番です。今回もそんなパターンで引っ越しを終えて、荷ほどきもして、新しい場所でほっと一息ついたとき、パソコンのメールボックスを開けて目玉が飛び出そうになりました。なんと、Fromeのマルシェ”The Frome Independent”から、「選考に通りましたので、ぜひ出店してください」とのオファーが来ていたのです!しかも、「来月から」。つまりは、2週間後。

0歳児と3歳児の育児、フルタイムの病院勤務、そして引っ越したばかりという条件から、「今は出来ない」と判断するのが妥当だったかも知れません。でも私は、お菓子作りをしたい気持ちをずっと押し込めてきた私には、やる選択肢しか考えられませんでした。そして、そこから引っ越し以上にドタバタと出店準備を始め、2016年4月、1週目の日曜日に、晴れて「YOKO BAKES」として初めてマルシェに出店することになったのです。その時にサイト制作やチラシ作りを手伝ってくれた、ロンドンの友人ジェナの夫ジャスパーは、私が最後イギリスを去る時に「Yokoと日本をイメージして作った」というロゴを作ってくれました。それが、今のYOKO BAKESのアイコニックなロゴです。(因みにこの時は急だったこともあり、大家さんには内緒で製造許可を取ってしまいました。本当にごめんなさい。)

どうやってこれだけ焼いたのか今となっては分からない

失敗だらけのスタートアップ

そこから日本へ引っ越すことになる2016年12月まで、月一の日曜日マルシェに出店したのですが、実は今から考えると失敗だらけでした。当時私は焼くことに精一杯で、しかも自分のお菓子に「商品」としての自信を持てなかったので、価格設定というものを結構適当にしていました。原価計算はとっても面倒くさいプロセスなので、「時間がない」という理由でやらず、他店のケーキの相場を見て決めていました。つまりは、「当てずっぽう」だった訳です。お金の管理は当時無職でやることのなかった(てこともないですが)主人に任せていたのですが、彼の後日談によると、「あの半年間の活動は、赤字でもなかったけど、黒字でもなかった」そうです。要は、収支差引ゼロ、ということです。

もう1つの失敗は、あれこれと多くの種類のケーキを焼いたこと。マカロン、カップケーキ、スクエアケーキ、ホールケーキ、ウェディングケーキ、ビクトリアケーキ、パウンドケーキなどなど、数えだしたらキリがないほど。おまけにパンも焼いていたので、本当に多くの種類を焼いていました。それはどういうことかと言うと、まず、それぞれのケーキの型や道具が必要になるので、投資額も、必要なスペースも増えるということ。そして、カップケーキならそれ専用の箱、ホールケーキ用の箱、のように、多種多様の容器包装が必要となったこと。最後に、それぞれのケーキに対する材料を調達する必要があったので、その分出費も、必要な収納スペースも、使いきれない材料(=ロス)も増えたこと。原価計算を無視した価格設定に合わせ、多くの種類を焼いたことが災いして、「利益の出ないビジネス」となっていたのです。

この頃はまだプラ包装を使っていた。

大切な2つの学びとは

ただ、この失敗は私に2つのとても重要なことを教えてくれました。

学びその1:原価計算は怠るべからず

この失敗経験を元に、今は1グラム単位で計算して価格を出しています。新しい商品を作る時は、まずグラムをきっちり計ることからスタート。面倒くさいし、価格設定は難しい課題ですが、材料費・製造費・相場などを考慮して慎重に決めることが大切です。と偉そうに言っていますが、まだまだ絶賛学習中。

学びその2:ケーキの種類、型、パッケージは最小限にすべし

種類が増えると調達する材料も多くなり、その分使わない分(ロス)も増える。収納スペースも多く必要となるし、型や容器包装も増える。さらにその分マインドスペースも必要となるので、「少人数制のクラスで目の行き届いた授業」がシングルタスキングな私には合っています。

以上2つの学びは、今現在のYOKO BAKESの主軸となるほど生かされています。「失敗は成功のもと」、とはあまりにもありふれた言葉ですが、本当にその通りだなと、つくづく思う今日この頃です。

またも終わってしまったYOKO BAKES

身体と心からのストップサイン

さて、こうして誕生したYOKO BAKESですが、半年余りした後に、全てを畳んで一旦終わりを告げることになります。それは、一つに主人の仕事が日本で見つかったこと。それとほぼ時期を同じくしてイギリス国内で国民投票が行われ、EU離脱が決定されたこと。そして何より、私の身体が限界に来ていたことが理由です。息子を出産後、ゆっくり休む間もなく復帰した仕事を授乳しながら続け、副業としてケーキを作り、月一のマルシェに出店するだけならまだしも、ウェディングケーキやホールケーキの受注生産を受けていた私には、疲労とストレスからうつ症状が出始めていました。しばらく収まっていたパニック症状も出てきたし、何よりもある時、車を運転しながら「このままあの木に突っ込めば、骨折でもして入院して休めるかも」と思った時は、自分で自分が怖かったです。だけど生活するには仕事は辞められないというプレッシャーのもと、来月のことすらどうなるか分からない生活が続いていた矢先、主人が日本で仕事の内定を貰ったときは、「この生活が終わるならどこへでも行く」という気持ちで、正直一番住みたくなかった日本へ引っ越すことになったのです。

全てを手放し、自分を見失う

そんなこんなで、マルシェの為に買ったケーキの型や道具、材料などは一切合切、人に譲って日本へ来たのが2016年の末でした。国内の引っ越しも大変ですが、海と大陸を越えての子連れ引っ越しは、超絶大変でした。引っ越しばかりの人生、私はこれ以来、一度も引っ越ししていません。何が一番大変だったかと言うと、引っ越す2~3か月前には荷物をクロネコヤマト海外Ver.に預けなければいけなかったこと。そして、日本に到着してからその荷物が手元に届くまでに、2週間ほどのタイムラグがあったこと。つまり、引っ越し用に詰めた荷物は丸々3か月半ほど使えなかったという訳です。なので結局、最後まで必要なものはFromeの家に残し、全てを手荷物で持って帰ることは不可能なので、それらはチャリティショップやら人に譲ってきた、ということで、その中にはたくさんのケーキ道具や型が含まれていたのです。

レシピ本
かろうじて日本へ連れてきたレシピ本たち

とは言え、日本のオーブンには大きすぎる型ばかりだったし、ミキサーなんかの電気製品はプラグや電圧が違うし、何より日本の家にはオーブンがなかったので、日本へ引っ越すということは、YOKO BAKESを辞める、ということでもありました。昔から使っている弓田亨さんのレシピ本や、上司キャサリンから貰ったお菓子の本、自分の手書きレシピや手になじんだ比較的小さな道具だけは荷物に詰めましたが、特段それを使う予定もなく、せっかくジャスパーにロゴをプレゼントして貰ったのに、何だか申し訳ないというか、悲しい気持ちでいっぱいでした。そして何より「私はこれから何をするんだろう」という漠然とした不安がありました。言語聴覚士の資格はいよいよ破棄になってしまう。お菓子作りも出来ない。鎌倉に友達も知り合いもいない。鎌倉を散歩してみても身体はふわふわ浮いている感じがして、私は一体どこに住んでいるんだろう、何人なんだろうと、自分のアイデンティティが人生で一番揺らいだ時期だったと思います。

その後のYOKO BAKESは

さて、こうしてYOKO BAKESは一旦終わりを告げたのですが、約4年後に店舗をオープンすることになります。仕事も辞めて専業主婦になった私が、一体全体、どういう経緯で再起業したのでしょうか。次の記事では、2016年イギリスで誕生したYOKO BAKESが、一旦日本で活動停止し、数々の逆境を乗り越えて開店するまでを包み隠さずお伝えします。ぜひ、お楽しみにしていて下さいね。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

私からあなたへ、愛を込めて
2024年5月 Yokoより

この記事の著者

Yoko Wspanialy

1983年2月生まれ。奈良県出身、大学で上京。大学院からロンドンへ渡り、言語聴覚士となる。留学先のデンマークで出会ったポーランド人と結婚し、現地の病院にて7年勤務。イギリスで娘と息子を出産し、産休中に上司に頼まれてウェディングケーキを作ったのをきっかけに、ケーキ作りを仕事にしたいと願うようになる。BBCのブリティッシュベイクオフに応募し、最終選考まで残る。2016年末に日本へ引っ越し、現在鎌倉に在住。小麦アレルギーの診断を経て米粉に転換し、2021年に3月に実店舗をオープン。その開業記録や、ケーキをビジネスとして続けることのあれこれを書いています。

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