BLOG & INFO

開業記録

小麦アレルギー:いざ、夢は諦める時がきた

#キャロットケーキ#グルテンフリー#ケーキ屋さん#ケーキ屋開業#自己紹介#開業記録

こんにちは、Yokoです。神奈川県藤沢市、江の島近くの「片瀬」という街に、小さなケーキ屋を2021年にオープンしました。自身の小麦アレルギーをきっかけに、全て日本の有機米粉で焼いています。看板商品は何と言ってもキャロットケーキとブラウニー。長く住んだイギリスの思い出が詰まったケーキたちです。前回の記事では、私が脱サラしてケーキ屋さんを始めようとしたものの、見事に成果として実らなかったお話をさせていただきました。この記事では、一旦お菓子作りを諦めることになった私が、子育てをしながらもう一度夢に向かい出すまでに経験した葛藤と、その矢先に受けた小麦アレルギーの診断についてお伝えさせていただきます。子育てと仕事、日本とイギリス、夢と現実。ぜひ、お読みください。それでは、始めましょう!

お別れを言えなかったイギリス

イギリスを最後に発ったのは2016年の12月。街はクリスマス色に日に日に濃く染まりつつある、寒い日の朝でした。私たち一家はまず主人の実家のポーランドへ行き、そこで2週間過ごしてから、クリスマスの後に日本へとやって来たのですが、私は終始頭が真っ白で、ぼ~っとした感覚でいました。「自分に何が起きているのか分からない」というのが正直な感想です。最後に見たイギリス南西部の風景も、空港までの道のりにある勤務先の病院やケアホームを車から眺めても、「また来週にでも私はあそこに戻る」ような感覚が私にはありました。ずっと住んできた場所に、もう自分も家族も、今この瞬間からいなくなる。それを想像するのが、その時の私には到底出来ませんでした。

そんなこんなで、気持ちの整理もつけられず、心の準備もなく、しぶしぶやって来た日本。私はイギリスにずっと住んでそこで死ぬ、と思っていたので、飛行機が成田空港に着陸したときは半ばパニックになりました。なんでこの国にいるの?私が?という困惑。本当に、全く何も呑み込めていない状態でした。飛行機は降りたものの、入国手続きの前で「やっぱりイギリスに戻る」と言い出し、主人に「今からは無理だよ」とあっさり言われてちょっと我に返ったのを今でも覚えています。私たちの海をまたいでの引っ越しは、それくらい、急な出来事だったのです。

激寒の12月のポーランド、と犬の散歩をする主人

私は浦島太郎 in Kamakura

そして始まった日本生活in鎌倉。主人の会社から指定された「大体この辺で住むとこ探してね」のエリアはあまりにも広すぎて、あまりにも土地勘のない私たちは、「観光で行ったことある(私)」「面接で日本に行った時、鎌倉に泊った(主人)」という単純な理由で鎌倉に決めました。そして一家4人が暮らせてかつ家賃も条件以内、という物件が、今住んでる賃貸一択だったのです。遠方からは内覧に行けなかったので、両親に関西からはるばる来てもらい、LINE動画で実況中継をしてもらい、また引っ越し数日前にはあれこれと整備をしてもらい、その節は両親には本当に助けてもらいました。

日本へ来てから数か月、いや半年くらいは、本当にまさしく浦島太郎状態でした。色んな手続きの為に市役所に行くも、今平成何年かが分からない。なので誰かに聞く。そして娘と息子の誕生日の和暦が分からない。なのでまた聞く。漢字が読みづらい。和式トイレの使い方を忘れた。ヘアドライヤーを買いにヤマダ電機に行ったら種類の多さにおののく(これは未だにですが)。どこのお店も広告や宣伝が視覚的にも聴覚的にもうるさすぎて頭が痛い(これも未だに)。道路が狭くてボコボコしていてベビーカーが押せない。ベビーカーを使ってバスに乗る方法が分からない。などなど、普通に生活しているだけなのに、全てのことに戸惑っていました。SMAPが解散したのも、「いいとも」が終わったのも、後になってから知りました。

どこに行っても観光気分。まさかこの近くにお店を出すことになるとは。

鬱になってしまった

何より、私には、会う人も、やることも、行く場所も、何もありませんでした。これまで言語聴覚士をフルタイムで、ケーキ屋さんを副業でやってきた私が、急に専業主婦になったのです。娘の幼稚園は4月始まりだし、息子は1歳になったばかりでどこにも入れない。保育園と幼稚園の違いも良くわからないし、「待機児童」についても聞いたことはあるけれど状況がよく分かっていない私は、もう本当に、何をどうしていいのか、分かりませんでした。鎌倉に行けば観光地で楽しそうな場所はあるけれど、そこにいても自分がそこには属していないような、ただ「たまたまそこに居るだけ」の観光客のようなふわふわした感覚があって、でも、私はもうイギリスには住んでいない。私の家は、一体どこなんだろう?私はどこにいるんだろう?ずっと、そんな感覚がつきまといました。

今から思えば当然のような気もしますが、私は鬱になりました。YOKO BAKESの名付け親の友人ニッキーが、「Yoko、あんたドタバタイギリスを出たから、一回ゆっくり戻ってきな」と言うので、日本へ来て初めての夏、家族でイギリスとポーランドへ行きました。1か月半くらいの滞在予定だったのですが、向こうへ行って2週間ほどしたところで、私はまた小さなパニックを起こすようになりました。とにかく身体が重くて辛くて、どうしても日本に帰りたいと泣き、急遽帰国。滞在中はロンドンにも、Bathにも、Fromeにも行ったのですが、当然のことながら、私たちの家はもうそこにはありませんでした。そんな事実を目の当たりにして、それをやっぱりまだ、受け入れられない自分がいたのだと思います。これは未だに現在進行形で、私はそれ以来イギリスに行っていません。気持ちの整理もついていなくて、焦る必要はないと思うけれど、2~3年以内には訪れて、ちゃんとお別れとお礼を言いたいな。そう思っています。

ネコ
娘より先に迎えた猫も、置いてきてしまった。

育児と仕事、そして夢

幼稚園はカルチャーショックの連続

引っ越して数か月後の4月には娘の「幼稚園」が始まりました。幼稚園、という場所を私はよく理解しておらず、何だかよく分からないままに入園。いくつか見学したのですが、一番自然豊かで人数が少なそうなところに決めました。Bathで娘が行っていた幼稚園”pre-school”では保護者会”Parents meeting”というと、「子供を寝かしつけた後来てね!」という感じで、行くや否や、「赤にする?白にする?ビールもあるよ~」みたいなカジュアルなものだったのですが、日本では先生が話して親が(子どもの小さい)椅子に座って話を聞く、しかも参加する親はほぼ全員女性、というのに驚き、緊張しました。そして話す内容も全然違う。イギリスでは「仕事何してるの?」「趣味は何?」とか、親同士が、自分自身のことを紹介し合うのですが、日本では一貫して子どものこと。仕事のことを聞く人はいませんでした。そして、私は子どもが幼稚園に行っている間、皆何してるんだろう?と疑問に思ったので、それを聞いたら、一瞬場がしーんとしてしまいました。「家事」と誰かが一言教えてくれたのですが、私はそんなに長い間家事をしたことがない。もっと掃除とか料理をしなきゃいけないのかな、でも仕事したいな、と率直に思ったのを今でも鮮明に覚えています。そして、「何だかまずいことを聞いちゃったのかも」という感覚が強く残りました。

お寺の中の幼稚園に通っていた

私は仕事がしたい

こうして人生で初めて専業主婦になった私は、紛れもなく戸惑っていました。これまで言語聴覚士やケーキ屋さんなど、自分のキャリアを築いてきたのに、それが一瞬にしてなくなった。何年もかけて苦労して親にお金も払ってもらって手に入れた資格も、使えなくなってしまった。大学の奨学金の返済はまだまだ残ってるのに、私が大学に行った意味って何だったんだろう?私は今まで何をしてきたんだろう?これからは何をするんだろう?周りのママを見ていると、子育てがすごく楽しそう。それが生き甲斐のようにも見える。私は自分の子どもは大好きだし、大切だけど、私は私の仕事がしたい。だけど、その気持ちを打ち明けられる相手もいないし、言ってはいけない気がして、「こんなに仕事がしたいって思う私は、ダメな母親なんだろうか」と自分を責めたりもしました。(今でも時折します。)

そうして、どうしても「仕事がしたい」という気持ちを拭えなかった私に、4歳の娘が一枚の紙を手渡してくれました。幼稚園バッグに入っていたそのプリント用紙には「主婦’sネットワーク 女性のセカンドキャリア ステップセミナー」と題してあり、何だかよく分からないけど、女性が仕事をすることを応援してくれるらしい?しかも主婦向け?そして、それは、翌日開催?しかも託児付き?これなら1歳半の息子を連れて行ける!速攻メールして予約を入れ、参加。そこで出会った「ヒトノコト」の代表の方にはその後大変お世話になることになるのですが、とにかく、その日、私は「もう一度働く」ということへ向けて、大きな一歩を踏み出したのです。

パートデビュー!

そしてその出会いから繋がった面白法人カヤックさんの求人にひっかかり、人事部でパートとして働かせて貰えることになりました。当時、抗うつ剤を飲んでいてパニック障害があるにも関わらず、快く受け入れて私にチャンスを下さったこの会社、今は鎌倉にあるのですが、当時は横浜にあるオフィスの最上階(30階)にあり、狭い所と高い所が嫌いな私(+パニック障害)にはハードルが高かったのですが、「他の大人たちと働く」という感覚に勝るものはありませんでした。自宅でも出来るようにとパソコンも与えてもらい、誰かと仕事をし、何かの役に立った、そう思える感覚。息子の一時預かりに払う金額を差し引きすればあまり儲けにはなりませんでしたが、それでも、育児以外の世界、ママでもない、主婦でもない、「私」でいられる場所が、私にはとても新鮮で、嬉しかったです。

お菓子を焼きたいという気持ち

その仕事はしばらく続けていたのですが、並行して、私の「お菓子を焼きたい」という気持ちが、またニョキニョキと出てきました。ほんとに、しつこいですよね。日本へ来たころはオーブンがなく、蒸しパンとかを作っていたのですが、やっぱり諦めきれず、終ぞや買うことにしました。これも種類の多さに電気屋でおののいたのですが、TOSHIBAの石窯オーブンに決定。庫内がどこのメーカーよりも広かったこと、そして250度までの高温がOK、の2つが決め手でした。そしてオーブンを購入したや否や、しばらくお菓子を焼いていなかった私の「お菓子焼きたい熱」がさく裂し、それは自ずと周りにも知られるようになり、少しずつではありますが、誕生日ケーキやギフト用スイーツを依頼してもらえるようになったのです。それは決してビジネスとしてではなく、「材料代と少しの手間賃を貰うね」くらいの軽いノリでしたが、やっぱり私は、お菓子を作ること、そしてそれを通して誰かに喜んでもらえることが、何よりも嬉しかったです

オーブンがないので蒸しパンを作ってた当初

私を救った鎌倉の自然

その後しばらくはお菓子やパンを家で焼き、たまに人に頼まれたものを焼いたり、「お山の会」という鎌倉の山を歩くサークルに息子と参加したりして、少しずつではありますが、自分を取り戻していったように思います。特にお山の会には救われました。週2回、お弁当持ちで朝10時に集合、12時にはゴールでお弁当の後下山、というスケジュールはなかなかハードでしたが、鎌倉の色んな山や海辺を息子と探索し、そこで見た風景、触れた自然、そして心が穏やかになる感覚は、私の疲れた心をじんわりと癒してくれました。どこかいつも焦りがあったので、他のお母さんみたいに「どっぷり」浸ることは出来なかったけど、お山の会で出会った人たちと自然は、消えそうになっていた私を、取り戻させてくれました。そして何より、会に在籍した1年半、週2回息子と一緒に歩いた時間は、息子が生まれて4か月で仕事に戻った私にとって、かけがえのない思い出となったと思います。カウンセリングに通いながら、抗うつ剤を飲みながらの入会でしたが、退会するころにはどちらも必要となくなっていたことは、そこで出会った友達と、自然のお陰だと思っています。本当に、ありがとう。

ハイキング鎌倉
衣張山からの景色に救われた瞬間

自分らしさを求めて

面白法人カヤックの仕事は楽しかったのですが、1年程経つと、「何かもっと自分らしい仕事をしたいな」と思うようになりました。それは、私がお山の会やお菓子を焼くことで少しず「自分」に戻っていった証だったのかも知れません。お菓子作りはやりたかったけれど、日本では「製造許可を取るには、自宅以外のキッチン、もしくは自宅なら家用とは別室である必要がある」という決まりがあるので、改装工事が出来ない賃貸の我が家では到底無理でした。始めるとなると、どこかを借りる、というとても高いハードルを越えなければなりません。資金も経験も自信もない私は、これに関しては諦めなくてはいけないと思いました。そして、前職の言語聴覚士という経験を活かした仕事をしよう、そう決めたのです。そして、次はADDSという療育センターで、非常勤講師として土曜日に働かせてもらえることになりました。言語聴覚士ではないですが、前職から使えるスキルもあるし、前よりも少し、自分らしい仕事になったのかな、と思います。

ADDSの仕事と並走して、私のお菓子作りはさらに広がりを見せて行きました。私が自分のことを話す機会が多くなったのか、お菓子をどこかに持っていくことが多くなったのか、何がきっかけかは分かりません。でも、「容子ちゃんはどうやらお菓子作りが上手らしい」という認識が、周りの人たちの中に、確実に定着しつつありました。お山の会では、3月に「卒会」というイベントがあるのですが(要は卒業式)、そこにブラウニーを焼いて持って行ったとき、「容子ちゃん、これめちゃくちゃ美味しい」と友達が半泣きで言ってくれたことを、今でも昨日のことのように覚えています。その時、すごく嬉しかったのはもちろんのことですが、少しだけ、ほんの少しだけですが、自分のお菓子作りに自信を持ち始める感覚がありました

ずっと作り続けているブラウニー

もう一度、夢に向かって

諦めたはずなのに、膨らむ夢

そうこうしているうちに、やっぱり一度は諦めた「お菓子を仕事にする」という夢が、そろ~りそろり、また顔を出してきました。ほんとにしつこいですよね。だけどそれはもう諦めると決めたんだから、理性ではそう処理していたつもりではいたのですが、事あるごとに物件を探したりしている私。気付けば不動産屋で話を聞いていたり、とあるレンタルスペースを見学しに行ってみたり、業務用オーブンの値段を調べてみたり。そして「あ~やっぱり無理無理」と言い聞かせるものの、また何か調べ出す。その度に私の夢はまた一回り膨らむのだけど、頑張ってしぼまそうとする。そんなことを繰り返しているうちに、ADDSの仕事にも身が入らなくなってきました。そしてその感覚は、ロンドンで言語聴覚士として働いていたときに経験した感覚と、ほぼ同一でした。「あ、また同じとこに戻って来た」、そう思いました。そして、その感覚は誰にとってもいいものではない、ということを経験していたし、私の「もう一度やってみたい」という想いは大きくなるばかりだったので、年度末といういいタイミングで退職することにしました。

ケーキ
デコレーションケーキを頼まれることも増えた

パン屋に修行を申し込む

そして息子が幼稚園に入園するタイミングで、鎌倉のパン屋さん「ビゴ」で働くことになりました。実は私はパンもずっと焼いていて、特に自家製酵母で焼くパンが「売り」でした。私のお菓子の師匠(と勝手に呼ばせて頂いている方)は弓田亨さんやGail’sですが、パンはイギリスBathのRichard Bertinetさん、そして”Tartine Bread”のChad Robertさんの本を中心に焼いていました。イギリスではパンコンクールで新人賞を受賞したりと、「パンもお菓子も両方やる」、というのが私のスタイルの特徴で、ケーキ屋さんというより、”Bakery”がやりたい事だったのです。とは言えバックグラウンドが思いっきり医療系の私。自分で始める前にどこかで修行しないと、と言うことで、鎌倉の色んなパン屋さんを食べ歩いた結果、一番美味しいと感じたビゴさんに「いつか自分のお店を持ちたいから、修行したい。無償でもいいから働かせて欲しい。」と申し出たのです。その時自家製酵母で焼いたパンも持って行って、食べてもらいました。そして快くOKを貰い、しかもパートとして雇ってくれることになったのです!イギリスでも日本でも、いくつかパン屋さんに修行を申し込んだことはあるのですが、いつも断られてばかりいたので、その電話を受けたときは、本当に嬉しかったです。と同時に、少し緊張もしました。

学びの日々と体調不良

こうして私は再び夢へと歩き出しました。息子を幼稚園へ送った後、ビゴへ行き、お迎えの時間まで働く。私は製造の修行が目的だったのですが、「まずは店頭から」、ということでレジ打ち、品出し、袋詰めなどからスタート。そして少しずつ後ろ(製造)の仕事も教えてもらえるようになり、洗い物から天板を拭く作業、製パンや製菓の仕上げ作業、簡単なピザやキッシュ作りなどなど、本当に色々教えてもらい、本当にたくさんの味見をしました。毎日が学びの連続で、自分が好きなパンやお菓子に触れられることは、喜びだったのですが、同時に、体調が振るわないことにも、気付いていました。仕事があった日の夜に咳が出るようになり、ひどくなると、夜寝るのも辛いくらい「ぜえぜえ」となってしまう。見てみないふりをしていたけど、心のどこかでは、「やっぱりか」という気持ちがありました。と言うのも、私はロンドンのとあるベーカリーでボランティアをしていたことがあるのですが、その時にも、同じ経験をしていたのです。そこで働いた日の夜、喘息のような症状が出て眠れない。結局そのボランティアは息子を妊娠したタイミングで辞めたのですが、喘息の症状はその後すぐによくなりました。

とどめの一撃

呼吸器内科を受診する

なので、心のどこかで「もしかしたら今回も喘息みたいになるかも」という懸念はありました。でも、それは自分のやりたい事と相反することなので、なるべく見ないように、知らないようにしていました。でも、ビゴで働き始めてしばらくして、「やっぱり」喘息みたいな症状は出てしまったのです。ビゴで仕事をすること、色んなことを学ぶのが好きで、私は無理をしていました。だけど、どうしても、身体がしんどくなってしまい、受診することにしました。呼吸が辛かったので、呼吸器科へ行き、先生が喘息の人に出すお薬を処方してくれました。それと同時に、原因を調べよう、ということで、アレルギーテストもしてくれたのです。「普段は小麦とか調べないけど、あなたの仕事のこともあるからね」と、小麦もテストしてくれました。そして結果は、小麦にアレルギー反応が強く出ていました。「今の仕事を辞められるなら辞めた方がいいよ。どうしても続けたいなら、工業用レベルのマスクをするしかない」と言われ、唖然としましたが、原因が分かって楽になったという気持ちもありました。身体が辛かったし、工業用のマスクをしたくなかったので、一旦仕事はストップしたいことを、当時の店長さんに説明しに行きました。まだ混乱していて、「辞める」とは言い切れず、体調がよくなったら戻りたいこと、それだけを伝えて、夏はお休みを貰うことにしました。

小麦との長い付き合いの果てに

子どもの頃からずっと続けてきたお菓子作り。大学生のころからはパンも始めて、ずっとずっと、ず~~~~っと小麦と付き合ってきた。これまで買った数えきれないほどのレシピ本、調べては読みあさった製菓・製パンのブログ記事、視聴したYouTube動画。その全てが小麦ベース。私のパンとケーキの知識、経験、技術、その全てが小麦ベース。それが、一瞬にして、目の前で崩れた。

ブラウニー
Piekarnia(ポーランド語で”ベーカリー”)という名前で再出発しようとしていた矢先だった

いよいよ、夢は諦める時だ、そう思いました。お菓子の神様は、パンの神様は、私には振り向いてくれなかった。もう十分でしょ、あなたはこの道とは縁がないんだよ、そう言われてるみたいでした。ほら、あなたは頭がいいんだし、英語も出来るんだし、言語聴覚士の資格も取ったんだから、そっち系の道に進みなさい。お菓子作りは畑違いもいいところ!そういうことなんだな、と思いました。そして、もう本当に、諦めることにしました。だって自分の身体が大事だから。私は自分の身体を犠牲にしてまで、夢は叶えたくないと思いました

と、ここまで書いて、今回はこの辺で終わりにしたいと思います。だけどこれを読んでる皆さんは、まだ続きがあることを、きっと知っています。女性のこと、日本のこと、母親であること、夢のこと。この記事を書いてる私ですら、目を伏せたくなるようなことも書きました。私が感じたそのままを書いています。あくまで私の「捉え方」なので、正しいも間違ってるも、ありません。

これを読んで下さったあなたが、今幸せでありますように。続きはまた今度、次回の記事で。私からあなたへ、愛を込めて。
Yokoより

この記事の著者

Yoko Wspanialy

1983年2月生まれ。奈良県出身、大学で上京。大学院からロンドンへ渡り、言語聴覚士となる。留学先のデンマークで出会ったポーランド人と結婚し、現地の病院にて7年勤務。イギリスで娘と息子を出産し、産休中に上司に頼まれてウェディングケーキを作ったのをきっかけに、ケーキ作りを仕事にしたいと願うようになる。BBCのブリティッシュベイクオフに応募し、最終選考まで残る。2016年末に日本へ引っ越し、現在鎌倉に在住。小麦アレルギーの診断を経て米粉に転換し、2021年に3月に実店舗をオープン。その開業記録や、ケーキをビジネスとして続けることのあれこれを書いています。

コメントは受け付けていません。

関連記事

プライバシーポリシー / 特定商取引法に基づく表記

Copyright © 2024 YOKO BAKES All rights Reserved.